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佛頂山 圓明寺(美作市)

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佛頂山 圓明寺
 当山は昔、現在の美作市古町の八幡に在り、八幡山圓明寺と称していました。慶応3年(1867)7月24日火災に遭い、堂宇はもとより、本尊、寺宝、什器の大部分を焼失。明治13年(1880)、当時の住職庵智照上人により、現在の地に移転しました。
 現在の地には、華山院入覺法皇が創立した、佛頂山慈眼寺が在りました。兵火により焼失し、元禄14年(1701)生駒の宝山寺より来られた深龍大和尚により、佛頂山光明庵を建立されました。
 明治13年に慈眼寺と圓明寺を合併し、慈眼寺の堂宇をそのまま使用し、山号は慈眼寺の佛頂山、寺号は圓明寺をとり、佛頂山圓明寺と改称しました。これが現在の寺です。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)

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寶壽山浄光院 觀音寺(美咲町)

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 当山は、高貴山相傅寺第九世圓教僧都が、寛仁4年(1020)に、隠居寺として岡之坊遍照院を建立したのが始まりです。
 文安元年(1444)、兵火のため相傅寺焼失の際に、本尊であった六観音のうち、焼失を免れた十一面観世音菩薩を遷(うつ)して、法雲山観音寺と寺号を改めました。初代は宥快僧正です。
 庚正2年(1456)8月19日、第三世密厳上人が遷化した夜に失火により焼失しました。当時は、戦国時代でなかなか再建できずに廃寺となろうとしていたのを、明応9年(1500)に地頭職であった浦上左馬之助行重が、京都より俊玄増正を招き再建立しました。
 その後も、再三にわたって兵火や失火により焼失しましたが、嘉永6年(1853)に、中興第一世戒光法師が再建し、山号を寶壽山と改めました。
 再建立の年が、庚申の年に縁あるをもって、庚申(青面金剛)を勧請して鎮守としています。
 平成16年、現在の本堂と檀徒会館を建立し、平成19年に五大明王堂の新建立、鎮守堂の移転や境内整備を行い、今日に至っています。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月20日撮影)

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金龍山 江原寺(美咲町)

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金龍山 江原寺(こうげんじ)
 当山は、応永年間頃(1394~1415)の創建にかかり、「徳蔵坊」と号する修験寺でした。
 慶長3年(1598)、領主・江原兵庫祐親次が、慶長の役で朝鮮出兵の折、釜山浦で病死したため、家臣がその遺命を受け、遺骸を持ち帰り、当坊に葬りました。同時に当坊の相応の荘厳を図って「江原寺」と改称し、江原氏の菩提寺としました。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月2日撮影)

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清瀧山 善性院 榮徳寺(美作市)

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第四番 清瀧山 善性院 榮徳寺
 当山は、天平年間の八世紀半ば、行基菩薩による開山です。
 行基は、元境内近くにある清流に心を引かれ、瀧の側に草庵を結びました。行基草庵の仏堂と弘法大師創建と合わせて、清瀧山榮徳寺と号されました。その後、火災により二回境内を変更しました。
 また、境内に隣接する清瀧に沿って険しい七曲りを登ると奥の院観音堂がありました。十一面観音菩薩は行基の作と伝えられていますが、昭和五十八年に、その観音堂も現本堂山側に移転されました。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)

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綾部西で咲くコスモスの花

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綾部西で咲くコスモスの花
2021年10月10日、秋晴れの中加茂町に行く途中に見かけた可愛らしいコスモスの花を撮ってきました。ここは「農村環境向上活動 景観形成 花いっぱいの郷 綾部西エコネット」の看板が建てられている田圃で、赤・ピンク・白・黄色のコスモスの花が風に揺れて楽しげです。
(この活動の未来は、より良い環境に恵まれた持続可能な社会 ~山から海まで 豊かな岡山を 次世代へ~)

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壇上山 清浄院 神宮寺(美作市)

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 当山は天平7年(735)の秋、行基菩薩が梶並の地を巡錫した時、梶並神社の境内が誠に美しく、清らかな霊地であることに深く感銘し、この境内に薬師堂を建立し、別に一寺を建て、これを神宮寺と名付けたと伝えられています。
 当時は仏教の興隆が盛んで、神仏同体説が唱えられました。大日如来は天照大神、阿弥陀如来は八幡神の如く、神を権現菩薩と唱え、僧侶は別当職として神事に参加し、神社の実権を分担し法業として神前に読経する風習が行われていました。
 享保元年(1716)、幕府の宗門改革により、薬師堂は磯神社と改め、神宮寺は大日庵という山伏寺のあった現在の地に移しました。
 また、津山城主・森忠政が当山の清浄なるに感じ、香水山と名付けたと、作州誌に書かれています。
 近年は、檀信徒の協力のもと石垣改修、客殿新築等、境内の整備に努めております。
 また境内のしだれ桜は見事で、遠くからも多くの観光客が訪れています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)

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秋空に美しく咲くバラの花(甲本バラ園)

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 2021年10月14日、津山市領家にある「甲本バラ園」(津山市領家1163-6)をお尋ねしてきました。
甲本通晴さんのバラ園では、四季咲きの色とりどりのバラの花が咲き始めていました。甲本さんは、「秋のバラの花はつるバラが咲かないので、春ほど華やかではありませんが、夫婦で秋にも美しく咲くようにと丹精込めて世話してきたので、是非見てください。」と話されていました。今年も秋に咲くバラの花を求めて遠方から訪ねて来られているそうです。まだ、咲きはじめなのでこれからが楽しみなバラ園です。

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植月英俊作品展 県北の風に吹かれて

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 岡山県県北にて長年、作家活動・芸術教育に尽力した画家。植月英俊氏。2016年に胆管癌であまりにも早い死を迎えますが、生前は画家としても教育者としても多くの後進を育て、岡山県県北における芸術の礎を先頭を切って築きました。
 今回は晩年の作品を中心に、スイスの教育思想家の名を掲げる鏡野町「ペスタロッチ館」と夭折の作家の展示をコンセプトとする「かがもの近代美術館」にて、植月氏が好んだボブ・ディランの名曲からオマージュ「県北の風に吹かれて」と称し、展示致します。
主催:OKUTSU芸術祭実行委員会
 第一期 2021年10月3日~10月10日 鏡野ペスタロッチ館ギャラリー
 第二基 2021年10月26日~11月21日 かがみの近代美術館

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津山銀天街・元魚町商店街合同「金曜マーケット」

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 毎週金曜日 10時~16時「金曜マーケット」で郵便局前が賑やかになります。2021年10月8日の金曜日久しぶりに伺ってきました。着くとすぐ大勢のお客様が競うようにして買い物をされていましたよ。店頭ではお魚類が沢山売られており、どれもこれも食欲をそそる品物ばかりです。それに素敵な方々が笑顔でにっこり!皆さん、とてもやさしくてまた来たいと思える「金曜マーケット」でした。
 又、10月24日(日)は、元魚町町内会だんじり(麒麟臺)展示と「きのこちゃん」ものまねライブショーがありますので、是非来てくださいね。

マルホ商店・ハシモト成果・早瀬豆腐店・ステーキサンド「ファボリ」・創作カレー「チムニー」他、季節限定出展者あり。※内容は変更になる場合があります。

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森大膳亮重政・母親(於竹)の屋敷跡

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 この段が森大膳亮重政君の住居跡だそうです。
住居の跡は、部落から一段と高くなった所にあって、後ろに山をひかえた、かなりの広さをもっていたもののようだ。現在は田となっていて「屋敷」、「屋敷の段」という地名となってのこっている。この屋敷のうしろの山の中腹にみられる古い墓は、供の人達のものであろうと伝えられている。
 森大膳亮重政は、津山藩初代藩主森忠政の長男として文禄二年(1593)、当時忠政が治めていた美濃国(現在の岐阜県)金山で生まれました。第二子という説もありますが、正しくは長男で、側室の子であったことと病弱であったため、相続権はなく、嫡子(ちゃくし)忠広の庶兄として育てられたようです。
 忠政が津山藩主として美作へ来た際には真経に屋敷を構え居住していました。おそらく病身のため藩の任務に就くことが困難で、真経の静かな地で療養をしていたのでしょう。そして、元和四年(1618)にこの地で亡くなります。26歳の若さでした。(2021年9月12日撮影)

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