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第25回 花の山寺 桜と紅葉まつり

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 2019年11月3日~11月17日まで「第25回 花の山寺 桜と紅葉まつり」が真庭市にある普門寺で開かれました。11月9日に伺ったのですが、モミジがすでに紅葉しているもの、これから紅葉するもので赤、黄色、緑と色鮮やかでした。また、近くでは、そばや団子等の特産品の販売もありました。
ここは、一年のうちに数回の花を咲かせる「四季桜」でも有名なお寺です。今年、びっくりしたのは菅官房長官のお人形が出迎えてくれました。本当によく似ていました。(2017年5月14日取材

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「2019 津山城もみじまつり」が始まりました。

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 2019年11月16日「津山城もみじまつり」が始まりました。津山城(鶴山公園)は春になると西日本有数の桜の名所でもあり、秋は紅葉のはじまったモミジが美しく、石垣とのコントラストが見事な公園です。園内を回るとイロハカエデ、大モミジ、大イチョウの紅葉が美しく、その中に番傘アートが彩を添えていました。11月23日・24日にはメインイベント「ご当地グルメ・和洋スイーツフェスティバル」、「美作国大茶華会」各種ステージが開催されます。また、下の観光センターでは津山ホルモンうどん研究会さんがこれまた同じ日11月23日と24日に明石である「B-1グランプリ in 明石」に出展PRする為「津山ホルモンうどん」を振る舞って観光客に喜ばれていました。

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第22回 さら山時代祭

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 2019年11月10日(日)9時00分〜15時00分 今年は素晴らしい天気に恵まれて心もウキウキです。青空の下佐良山小学校から、御醍醐天皇が顔を洗ったとされる洗顔清水までを時々バスを利用しながら歩いてきました。途中で時代行列とも出会いました。美味しいうどん、焼きそば、ピザにたい焼きなどに舌鼓を打ちながら、空手や踊りなどのステージイベント、抽選会もあり盛りだくさんの行程でした。

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古民家・倭文の郷  黒瀬家(戸脇)

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 過去、何度かイベントがあり取材させて頂いております津山市戸脇にある古民家「倭文の郷」ですが、予てから詳しく知りたいと黒瀬家をお訪ねして来ました。。(2014年)(2018年)
 「黒瀬家の詳しいルーツは解りませんが、建築当時の黒瀬家の覚書があり、建てられたのは元治元年(1864)だとわかります。」と教えていただきました。築155年の黒瀬家は、嘗て津山藩の庄屋をしながら明治初年から養蚕を飼っていたそうです。その後、財を成して明治22年より大正9年まで清酒醸造業をしていたそうで、今でも家の中には酒蔵の名残がありました。六代目黒瀬精一正勝の時代は、この他にも津山特産雲齊織を、また、柿・漆の木、孟宗竹等を植樹し、地方果樹園の起源を作ったと記されています。(2019年9月25日撮影)

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岸田吟香生誕の地と岸田家墓地(美咲町)

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  岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米北条郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
 幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで上原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。(文:岸田吟香記念館『岸田吟香』より)(2019年8月18日撮影)

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草加部のコスモスが可愛いです。

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 津山市加茂町にあるサムハラ神社へお参りしようと車を走らせていると、草加部の工業団地近くの畑に淡いピンクのコスモス畑が目に飛び込んできました。もうコスモスも過ぎたかなと思っていたのでとても嬉しくなりました。少し、秋風が肌寒く感じましたが、車を止めて撮影してきました。年々季節も変わってきてお花たちもどうしたものかと思っているでしょうね。(2019年11月4日撮影)

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梅本山 観音寺(鏡野町)

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 弘仁十三年(823年)、山岳権現信仰の発達していた時代、藤原雄友の創建で、この地の泉山山中に井水権現を本尊として神仏混合の社殿を建立し、当観音寺はその宿坊の役目をしていました。
 後に勢力分離の国策のため、泉山に泉嵓神社として残し、観音寺は今この地に移転されました。その後は西屋城の戦でこの地に没した多くの兵士の菩堤を弔うために、慶長五年(1600)に頼照上人が中興となって再建されました。
 山号に梅本山とあるのは、菅原一族の一部がこの地に土着して、道真公を奉祠したのを契機に、梅本山と号したのだと思われます。
 持佛堂に阿弥陀如来と秘佛の訶利帝母尊(鬼子母神)をお奉りしていますので、子育てのお寺として信仰されています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年10月日)

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逧田の合祀されているお大師堂(福井)

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 福井の片山・桑田集落の南には、広戸川が流れ、木造手すりの草町橋がかかっている。この草町橋を渡って、小峪に抜ける山道にさしかかった丘の上に、お大師堂が祀られている。
 ここら辺りは、逧田と言う地名であり、このお大師堂には、「勝南霊場第拾九番御本尊 薬師如来」の表札がある。一般に、お大師堂と言って、本尊に薬師様を祀っている事例が多い。正しく言うと、これは薬師堂である。お薬師様、すなわち薬師如来は、東方浄瑠璃世界に住んでいて、現世利益をはかる医薬に権威を持った仏様である。昔はとくに医療治療がままならなかった農民にとって、病気平癒・無病息災を願う気持ちは切実なものがあり、薬師如来にすがる信仰は、強いものがあった。
 この逧田のお大師堂の創建は不明だが、お大師信仰・八十八か寺巡りが盛んであった戦前の、昭和12年(1937年)に改築されている。だれがどのような協力のもとに建てたか、後年よくわかるように、金銭や人歩・資材の寄付録が、内部の壁に掲げてある。「薬師堂改築寄付録」(金銭寄付)では56名、「薬師堂改築寄付録 人歩及び材料」では、54名の住民の名前が記されており、小字部落の片山・桑田・小峪(以上、有為組)と岡・東岡・横尾(以上 三結団)が共同しての出資や奉仕により、再建したものである。また、昭和30年に屋根の葺き替えをしているが、この時も63名の住民の名が記されて、住民みんなこぞっての協力によるものであることがわかる。

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八木山 知足院 福泉寺(鏡野町)

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  当山は寺伝によれば、行基菩薩が諸国巡礼の折、当地に立ち寄られ自ら観音像を刻まれ安置、寺号を福岡山福泉寺とし、開創されたお寺です。
 その後、弘仁年間には弘法大師も密教を広めるため、当寺に立ち寄られました。その折、寺号を知足院と改められました。そのため、当山は知足院ともいいます。
 宝暦年間に落雷により火災となり、伽藍が悉く焼失してしまいました。
 境内を現在地、米山に移して寺号を八木山福泉寺と称しました。本堂は文政二年(1819)、庫裏は明治元年の建立です。 

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