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宮島の初日の出

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 2017年の1月元旦、初日の出を拝みに広島県の宮島へ行って来ました。
 今年は良い初日の出を見ようと、広島市内のホテルに宿泊して元旦の朝、広島発臨時列車(AM5時発)に乗って宮島口まで行き、その後、フェリーに10分ほど乗って厳島に着き、更にそこから20分程歩いて、ロープウェイ乗り場に到着してみると長~~い列に圧倒されましたが、6人乗りの小さなロープウェイに何とか乗ることが出来ました。弥山(みせん)で途中下車して大きなロープウェイに乗り換えて30分ほどかかりました。ロープウェイから海に映る初日の出と、かすかに霞む幻想的な情景を拝むことが出来ました。行きがけの厳島神社の大鳥居は干潮で、歩いて大鳥居まで行く人もいましたが、帰る頃は満潮になり大鳥居は海の中でした。その後初詣の人の波もとぎれることなく、大勢の参拝の方達で賑わっていました。

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東松原 大師堂(津山市林田)

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四国58番 東松原 大師堂(2014年6月29日撮影)
四国霊場の『栴檀山香園寺』を勧請しており、子安大師として地元の方々の信仰を集めています。先代が亡くなられ詳しい事はわかりませんでしたが、今でもご近所におられる方がきちんとお祀りされていて、掃除も行き届いていた大師堂です。

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西岩山 寿光寺(西寺町)

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寿光寺の歴史
 綱国と共に津山に来た養母の立長院が、西寺町の景徳寺の盤海という住職の仏典の講義を聞きに通っていた。
この西寺町の景徳寺とは現在の寿光寺のこと。森家のとき、忠政が各地の城造りに引き出されて多忙のため叔父の森可政を津山によんで忠政代理で築城と町造りの指揮に当たらせた。この可政が菩提寺として景徳寺を建てた。同寺の記録では元和元年になっている。その立長院の死により法諱「立長院殿雲嶽寿光大姉」から寿光寺と改名、忠直の「西岩院殿磬誉鉄心大居士」の諱号の西岩院を寺号にした。津山西寺町の西岩山寿光寺は松平忠直の寺でもある。(前回2009年の記事)(情報提供:壽光寺)

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津山・美作の国いにしえギャラリー by 江見写真館(第1回 梶村邸)

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梶村家の歴史
 梶村家はもとの屋号を米屋といい、元禄年間(1695年頃)には出雲街道の南側に居住し、その後現在の地に住んだようである。
 宝暦年間(1760年頃)には山内屋と称しているが、商いは不明である。明和4年(1767)に「札元並」という町役に任命され、五人扶持、名字を許され茂渡藤右衛門と改名、その後数代にわたり「札元」を勤めている。
 梶村姓を名乗るのは明治4年(1871)からである。明治中期には平五郎が県会議員として県政に貢献し、銀行業務に尽くすかたわら和歌を得意とし明治42年(1909)の歌会始に入選するなど、美作地方の歌壇の発展に尽くした。また、長男良次もガス会社・製紙会社などの経営に活躍した。
 なお、平五郎などの和歌の活動の場となったのが、当家の後の果樹園に建っていた「千草舎」(ちぐさのや)と呼ばれていた庵である。そこで、このたびの修理で茶室にこの名を引き継いだ。
(文:梶村邸説明パネルより)(写真提供:江見写真館、※写真撮影の年代は全て賀陽宮様がお出でになった昭和6年のものだそうです。)※写真は「津山瓦版」のみ使用可です。

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今井橋について(津山市)

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今井橋は、岡山県津山市を流れる吉井川に架けられた橋です。
旧今井橋之記
 境橋、今津屋橋の間の新橋を架設する事は住民が永く願望しており、当時姫津鉄道(現在の姫新線)の全面開通時期が迫るにあたって気運が高まりました。有志を募り期成同盟会を組織し、第一大谷土地区画整理組合と提携し、現実化に向け奔走している時、坪井町の今井壽恵氏が一万円を寄附し架設資金に充てられ完成しました。昭和十一年四月二十日開通の式典において姓を頂いて橋名としました。此処に栄誉を称え記念碑を設置し後世に伝えます。(記念銅版より抜粋)

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つやまギャラリーⅤ 浮世絵 江戸の美人たち

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【つやまギャラリーⅤ】津山洋学資料館が所蔵する浮世絵のうちから美人画を中心に展示。喜多川歌麿や三代目歌川豊国らが描いた、大江戸美女の艶姿が、2016年12月2日~8日まで、登録有形文化財の城東むかし町家(旧梶村家住宅)で展示されました。衣装や髪型、髪飾りなど色鮮やかな美しい江戸時代の遊女や町娘が生き生きと描かれていて往時を忍んで見学してきました。(2016年12月7日撮影)

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そば粉聖人 遍照院是空法師(美作市)

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そば粉上人(遍照院是空法師-高木蜂次郎)
 英田郡美作町殿所に嘉永4年(1851)に生まれた遍照院是空法師(大正7年入寂)は、そば粉上人と称えられている。上人は、19歳のある夜霊夢を感じ信仰の道に入ったといわれ、発心以来五穀を絶ちそば粉に漬物のみ食べ、また一切の火気を断って風呂に入らず水ごりをとるといった、常人を離れた荒修行を続けた。
 難病患者に対しては、わが身が代わってその苦痛を受けると祈祷し、自分の指を切断していた。入寂時満足な指は親指一本だけであったという。勝央町にも当時植月、小矢田にたびたび訪れており、上人の功徳により立ち直ったという患者が多い。
 上人の高徳を慕い、その後権田甚四郎らの人びとによって城山(小矢田)の登り坂に、奉唱大師講、大日如来その他の板碑が建立されている。その隣に上人を供養する堂宇が建てられた。(当時の堂宇は破損し新しく小さな祠がつくられている)また供養とは別に上人の面影を山田照雲(一刀彫)が彫刻している。「昭和3年5月戸倉山勧請、辺照院是空師 哲刀彫」と記されている。(戸倉山勧請は誤記とおもわれる。この山は城山である)
(文:勝央町史より)(写真:2016年12月10日撮影)

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小須賀稲荷神社(材木町)

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 材木町は津山城築城の折、材木置き場になったことに由来する。
森家の重臣森采女の別邸が置かれたが、松平藩に代わり重臣の小須賀氏の別邸となった。一説にこの屋敷の屋敷神が小須賀稲荷神社として伝わり、現在は材木町と伏見町の町内神になったと伝えられている。武士が屋敷神として稲荷の洞を設けるようになったのは、江戸中期、足軽の子から、幕府の老中まで出世した田沼意次(おきつぐ)が、稲荷を厚く信仰していた為という説がある。
所在:津山市材木町 祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと) 創建:慶長年間(1596~1615) 以降
祭礼:秋祭10/末~11/初
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年11月30日撮影)

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