美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)
保田市郎右衛門(野村)
野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。
保田市郎右衛門(野村)
野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。
社殿の左手にある1号樹、そのすぐ後の2号樹、また社殿の右手と奥にも見かけられる。1号樹の根元は空洞になっており、永い年月を経たことを物語っている。
1号樹 目通周囲2.42m、根元周囲4.20m、樹高20m、推定樹齢250年
2号樹 目通周囲1.55m、根元周囲2.42m、樹高20m、推定樹齢200年
ツクバネガシは、日本と台湾に自生する暖帯性のカシで光沢のある葉が、正月につく羽根に似て、枝の先端から4枚の羽根のような葉がでている。
県下のツクバネガシの自生地では、ここが北限といわれる。
勝北町上村 朝吉神社/町文化財(天然記念物)/昭和55年4月1日指定
(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)(2018年8月26日撮影)
植月城跡 勝田郡勝央町植月中字小山(岡山の中世城館跡)
永正九年(1512)宮山城と改名する。10㍍余りの高台のうえにあり、本丸は一三間×一三間、二の丸は一八間×一八間、北側に約一間半の築地が現存する。
菅原満佐の四男公興が宝治2年(1248)、植月、広野の地頭職となった時築城したといわれ、植月一族の本城である。城主は公興ー安嗣ー重嗣ー重佐ー重長ー重可ー可直ー佐豊ー基可ー重直ー重豊ー重政ー基佐ー能佐ー佐峻ー佐教。
四代重佐は菅家一族とともに京都六波羅討伐に出陣戦死す。この功で大正5年正五位の追賞をうける。(城跡に記念碑が立つ)永正9年城主基佐は、日吉神社を現在地に遷座し、本城も宮山城と改名する。三星城に味方し出陣するも、城主佐教をはじめ多くの一族戦死する。城は岡豊前守が接収、城主となる。毎年4月8日、植月一族城跡に集まり、先祖供養を盛大に行っている。(文:『勝央町誌』より)(2018年8月18日撮影)
一郎さんがまだ12,3歳の頃の話。
親類の吉見に法事によばれて行きました。
ご馳走をよばれて帰ることになりました。見送りに出たおばさんが、
「一郎すこし遠いけど山道を帰らずに、大街道を帰りなさい」
と親切に言ってくれました。
六体地蔵はいづれも墓地の入口などに建てられており、この世を去った人々が弥勤の現れるまで迷わぬよう墓地のそばで見守っている。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六つの世界を指し生まれ変わり、死に変わる迷いの世界で苦しむ人々をそれぞれの菩薩がそれぞれの苦しみによって救済するといわれ、室町時代にはじまり江戸時代にはいろいろな形状に造られるようになった。町内のものは、いづれも舟形半肉彫りの整ったものがおおい。
地蔵さんは、もっとも庶民にしたしまれた菩薩で髪を高く結んだり、美しい着衣で身を飾るようなことはせず、頭は剃髪し僧侶のように衣をまとい手に錫杖と宝珠をもっている。
このように地蔵菩薩は比丘の姿で遊行し、多くの衆生に接し救済するといわれている。
また年号や、願主名を刻まないものが多く、いかにも街道を行く衆生を対象とした純粋な信仰として造立された趣はほほえましい。
また地蔵さまは色々な俗称で呼ばれることが多く、何事にも成就がかなう仏で崇拝され、また地蔵にまつわる伝説もおおいい。 新善光寺地蔵菩薩 中村 新善光寺 地蔵菩薩立像 一体
(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)(2018年8月18日撮影)
2018年8月22日・23日と久米の慈恩寺さんをお訪ねしてきました。友人から、先の雨で裏山が崩れ、竜王堂が傾いているとの連絡を受けて様子を伺って来ました。姿形はあったのでほっとしました。また、再建されるそうです。慈恩寺さんにはもうひとつ、子ども達に人気の白いカメさん(ケヅメリクガメ)が二匹います。名前は「マックスくん」と「モモジローくん」だそうです。住職にお聞きしたら、2000年の秋に買って来た時は僅か700gくらいで2歳(推定)だったそうです。
ウッドパーク声が乢に向かう途中の道沿いに羽賀塩手クラブさんのお世話されている花壇が目に入りました。ここはいつも綺麗なお花が咲いてるなぁ~と思いながら通っている場所でもあり、車を止めて、鮮やかな色のカンナ、日々草、千日紅、マリーゴールド、百日草などなどをしばし眺めてきました。御世話されている羽賀塩手クラブさんありがとうございました。(撮影2018年8月18日)
日本原神社の前にあり、建碑は弘化2年(1845)もとは、国道53号線の南側に建てられていたが、のちに北側に移され、国道改修のため、現在のところに移転した。
芭蕉150年忌あたる天保14年(1843)に、日本原に芭蕉句碑を建てようと志していた、俳人有元渕龍(山形)が没したので社友亀由等が、其の意志を継いで建てた碑である。
碑面に刻まれた句は、芭蕉が那須野で詠んだものであるが、日本原野の景観が、この句意に符合するところから、選ばれたといわれている。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)
2018年8月18日の小田中散歩で出逢ったお野菜たちです。
今年の夏は異様に暑くて8月に入ってからも36度は当たり前でしたが、お盆前後から朝晩が急に涼しくなりました。というか涼しいを通り越して寒く感じられるようになりました。朝が涼しくなったので、急な坂道も歩くとほどよい加減です。畑には季節のお野菜がすくすく育っていますが、暑さにピーマンは落下して赤くなっていました。