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作州忍者鶴山隊結成一周年記念事業

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 2020年2月22日の午前中は生憎の雨模様となりましたが、午後からは雨も止んで甲賀、伊賀、近江、美濃等の国から友軍の参加を得て「作州忍者鶴山隊結成一周年記念事業」が執り行われました。午前の部には、あべ俊子衆議院議員がくノ一忍者姿で現れるサプライズもあり一段と盛り上がりました。

 「津山城に忍者、・・・・・・・と思いし行動開始したのが平成最後の年、31年2月22日(ニン・ニンじゃ)津山城にて5名の有志によりスタートし、忍者は " 学び " から原点に おくにじまん研究会長 藤木靖史さんによる津山城の魅力発見学習をはじめ、6月15日郷土史家 山田美那子先生の学習会を皮切りに元郷博物館館長 尾島治さま講師による学習会を毎月行って来ました。また、令和2年1月25日には忍者研究の一人者 三重大学の山田雄司教授の来津して頂き懇親、 激励等頂学習を重ねてまいりました。これからも活動を続け全国に鶴山隊や津山の魅力を発信したい。」と河部隊長です。

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津山の夕日に魅せられて。

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 2020年2月23日、お散歩がてらに吉井川に沿って歩いてみました。少し風が吹いていたのですが、安岡町から見る夕日は美しくしばらく見とれてしまいました。また、川辺では水鳥たちがにぎやかに家路を急いでいるように見えました。津山の中心部で永年暮していても、日ごろは家事に追われゆっくりとこうした自然に触れ合うことができないでいたのですが、これからは出かけていきたいと思いました。

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童子切安綱写し刀お披露目セレモニー

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童子切安綱(国宝 太刀 伯耆安綱「名物 童子切安綱」東京国立博物館所蔵)
 平安時代に活躍した武将・源頼光が大江山の怪物・酒呑童子の首を切り落としたという伝承を持つ太刀です。作者の安綱は、平安時代に伯耆(現在の鳥取県西部)で活躍した刀工。伯耆は、備前(岡山県)や山城(京都府)のようなメジャーな刀剣産地ではありませんが、良質な鉄の産地であるため、名工・名刀が出ています。その安綱が手掛けた刀剣の最高傑作がこの太刀で、その造形の素晴らしさが、酒呑童子伝説と結び付いたものと考えられます。
 「天下五剣」の一つとして古くから名高く、足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、そして秀忠へと天下人の手を経て、秀忠の娘・勝姫が松平忠直に輿入れする際に持参し、忠直から光長、宣富へと受け継がれ、津山藩主松平家で長く家宝として伝えられました。戦後、松平家の手を離れ、個人所有を経て、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
(ただし、この伝来には異説もあり、小牧・長久手の戦いの後、結城秀康が秀吉の養子となる際に、父家康が餞別として贈ったものとも言われます。)
 この太刀は保存状態が非常に良く、茎の目針穴が一つしかありません。これは、作成当初の姿をほぼ留めているということであり、長く大切にされてきた証しでもあります。
 このように、安綱の最高傑作という美術工芸品としての優れた価値だけでなく、天下人の手を経て津山藩主松平家に伝わったという華麗な由緒来歴を持ち合わせていることから、国宝に指定されています。

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津山市文化協会 芸術文化祭「令和を生きる」

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 2020年2月1日・2日(10:00~17:00)津山市地域交流センター(アルネ・津山4階)にて、「津山市文化協会 芸術文化祭 令和を生きる ~人生と芸術大いに楽しむ~」というタイトルで津山市文化協会会員による芸術作品展・芸能発表会がにぎやかに執り行われました。
 体験教室では、お香の香り、手づくり匂い袋講座、子どもいけ花教室、からだ元気でこころ豊かにが行われ、イベントでは詩の朗読会、珈琲喫茶、ステージ発表がありました。
 また、ギャラリー展示(文芸・美術工芸)や華道展もあり、それぞれの団体のみなさんの力作が展示されていました。

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美作の大庄屋巡り「中西家」

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 中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
 中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。

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石造無縫塔(加茂町塔中)県指定重要文化財

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石造無縫塔(津山市加茂町塔中) 県指定重要文化財
 無縫塔とは、鎌倉時代に禅宗とともに中国大陸から伝えられた石塔で、基礎の上に卵形の塔身が置かれており、卵のように縫い目のない作りから無縫塔または卵塔とも呼ばれています。基礎と塔身の間に柱状の笠と中台をもつ複雑な形状のものを重制、それがないものを単制といいます。禅宗寺院の僧の墓にしばしば用いられています。
  この無縫塔は、津山市加茂町塔中にある文殊堂の裏手にあり、隣の宝篋印塔とともに県の重要文化財に指定されています。かつてこの場所には、天龍寺(京都市)を本山とする末寺があったとされています。総高123㎝で、八角形の基礎、笠、中台の上に塔身を置く重制の無縫塔です。銘文はありませんが、その様式から室町時代初期に建てられたものと考えられます。宝暦12(1762)年に天龍寺がこの地を調査して、無縫塔を夢窓国師のもの、宝篋印塔を開山宝山和尚のものと認定したということが脇に建てられた石碑に刻まれています。

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文殊堂と県指定重要文化財(加茂町塔中)

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  作東誌(文化十二年 西暦一八一五年)によれば、文殊堂は、小中原村成興寺持で松渓庵と称し、文殊菩薩木像を安置するとある。ここにはかつて獅子吼山法音寺(安政四年 西暦一八五七年初屋文書によれば法苑寺とも、文久四年 西暦一八六四年新調の振亀箱には法音寺と記されている)という京都の天龍寺の末寺の禅寺があったが、創建された時期などつまびらかではない。現在の堂宇は、明治時代に火災に遭遇し再建されたものである。往時は御開帳を、旧正月二十五日に大般若経の転読の奉修が行われていたが最近では毎年三月第一日曜日に甘酒供養を、夏七月二十五日には大念珠まわし供養が行われ、知恵の文殊と崇拝されている。堂裏の墓地の一角には、岡山県指定重要文化財(昭和三十四年三月指定)があり、室町初期から南北朝期の様式をとどめる、石造無縫塔と石造宝篋印塔の二基がある。石造無縫塔は京都の天龍寺の開祖の夢窓国師のもの、石造宝篋印塔は松渓庵開山の宝山大和尚のものであると、宝暦十二年六月(西暦一七六二年)に本山天龍寺から来山し古記録と照合認定したという自然石の碑が塔前に建っている。松渓庵をつつむ自然のたたずまいの中に、時の流れの今昔をしのんでいただきたいものである。
塔中部落・加茂町観光協会
平成三年三月吉日

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神南備山展望台から津山市内を望む 2020冬

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 2020年1月26日(土)天気は曇りでしたが、冬とは思えないほど暖かい日となり、 久しぶりに神南備山展望台迄行ってみることにしました。この神南備山展望台からは津山まなびの鉄道館(扇形機関車庫)や、津山城(鶴山公園)など津山盆地を一望できる場所で見ごたえがあります。(2012年5月6日神南備山展望台の様子です。

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美作の庄屋巡り「多胡源右衛門」

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 天正7年(1579年)尼子氏が亡んで、尼子氏の旧臣であった東北條郡綾部村(津山市)多胡源三郎基辰(妻は田口氏)は、父四郎右衛門基信(いづれも多胡氏略系参照)と共に宇喜多直家に属した。
 多胡基辰は毛利氏の属城の東北條郡岩尾山城(津山市吉見、祝山、医王山ともいう、既述)を常にうかがっていた。
 毛利方の城將の塩屋佐助は父の豊後守、弟杢助と共に城を守っていたが、多胡基辰に不意を襲われ戦死、落城した。

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万燈山古墳 加茂町指定史跡 

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 万燈山古墳は直径24m、高さ4mの円墳と指定されています。昭和46年11月から12月にかけて発掘調査が行われ次のことがわかりました。
 南に開口する横穴式石室であり全長約11m、玄室長6.5m、幅2.2m~2.4m、高さ2.8mで、現在わかっているものでは、県北最大の石室です。この石室の中に組合わせ式の石棺1、陶棺1、木棺7があり、20体以上の埋葬者がたしかめられ、また羨道入口において大がめなどを破砕した葬送儀式あとが見つかりました。
 石室内からは次のような遺物が出土しました。金環21、勾玉7、管玉6、切子玉6、大玉・小玉類130、小金環2、空玉20、直刀9、刀子(短い刀)14、鉄鏃(鉄のやじり)10、馬具2組(鉄地金銅張飾具付)、馬鈴2、鉄滓及び土師器多数、須恵器の高坏5、坏21、まり(水や酒を盛った器)2、提瓶5、平瓶3、壺2、坩2、台付鉢1、大がめ1、他破片多数。(出土品の一部は加茂町歴史民俗資料館に展示しています。)
 この遺物のうち鉄地金銅張の馬具類や馬鈴は、石室の規模とともに、この古墳に葬られた人が当時の社会階層の上位にあることを示し、鉄滓は、鉄生産又は加工を行ったことを示しています。
 この古墳は6世紀後半(約1400年前)に築造され、7世紀始めまで追葬が行われたものです。

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