有木乢(西田辺)
中山の神に奉仕した里人有木氏が居住していたところ。屯倉、神饌1000米のルーツと言われている。江戸時代にここに伯耆街道を通した、新町宿場町、百乢、養野、倉吉、隣接の香々美村への主要連絡通路。牛馬の水飲み場であった古井戸や屋敷跡がある。(文:美作一宮の文化財地図より)
中山の神に奉仕した里人有木氏が居住していたところ。屯倉、神饌1000米のルーツと言われている。江戸時代にここに伯耆街道を通した、新町宿場町、百乢、養野、倉吉、隣接の香々美村への主要連絡通路。牛馬の水飲み場であった古井戸や屋敷跡がある。(文:美作一宮の文化財地図より)
津山市西田辺地内の鵜ノ羽川と県道が交差する地点で、民家の出入り口の県道脇に立派な灯篭が建立されている。灯篭の碑文内容を要約すると、安政年中(1854~1859)に田原安五郎が発起して津山より香々美中村までを道路改修し、そして、その遺志を継いで息子田原平五郎が明治4年に一宮から人形峠まで道路改修を始めたと刻字されている。
植月家 植月六郎右衛門 久米南条郡一方村 森藩~松平藩
大庄屋まで
植月氏は、美作菅家七党の一つである。家譜によれば、その子孫が宇喜多氏に仕えて一方村を与えられ、神南備山北麓に居を構えた。これが一方村植月氏の祖である。新右衛門が森藩の大庄屋を勤め、その後明治まで続いた。
大庄屋として
植月新右衛門は承応2年(1653)の一方村の「山上り」や、延宝7年(1679)の皿川改修工事による広い新田作りに功績があった。皿川改修には下弓削村大庄屋河原善右衛門とともに尽力した。六郎右衛門は元禄一揆の記録を残し、山中一揆が起ると、120名の人夫を連れ、弓や鉄砲などを携帯して、鎮圧に出動する準備をした。澄江は、慶応2年(1866)長州戦争に郷夫隊総取締として従軍した。
大倉家 大倉正左衛門 久米北条郡和田北村 浜田藩(鶴田藩)
大庄屋まで
家伝によれば、遠祖は後白河法皇の近臣の一人平資行という。彼は『平家物語』に出ている鹿ヶ谷事件で美作に配流され、一族は大倉を名乗ったという。神楽尾城主大蔵甚兵衛はこの流れをくむといわれている。 弘化2年(1845)から、大倉正左衛門が南組の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
美作に移った浜田藩は、慶応3年鶴田藩に名を変えた。藩主をはじめ4千人ともいわれる家臣とその家族の生活を支えた領民は大きな負担を強いられた。正左衛門たちは、藩への献金や借金の交渉と返済などの処理に廃藩後まで尽力した。慶応4年、新たに編入される村を早急に決定してほしい旨を幕府に嘆願し、美作5郡の95か村が鶴田藩に編入された。大倉家には大量の文書が残されている。
所在地
古くから垪和郷の信仰を集めた一ノ宮八幡神社がある。
森八神社(安清) 盗難除け、悪疫除けの神様。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
六十六部供養碑と塞の神(明谷・原)
六十六部の供養碑は満願供養のものであり、「奉納大乗妙転六十六部供養塔」と刻まれている。塞の神は原と明谷の境にあり、旅人や地区の安全と無病息災を祈願する。天保3年(1832)建立。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
追分一里塚跡(矢谷入り口)
明治29年の国道改修により場所が異動している。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
西尾与九郎屋敷跡(岩屋)
天正9年(1581)6月、宇喜多氏の支配下にあった岩屋城を毛利氏は32人の決死隊をもって「落とし雪隠」より攻め落城させた。勝利に貢献した西尾与九郎は毛利より感状(表彰状)を受けた。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
森原神社(安清)
明治41年に鶴坂神社に合祀されているが、現在も毎年甘酒祭などをしている。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
2019年8月8日立っているだけでくらくらするような炎天下、院庄にある作楽神社東側の発掘現場にお邪魔してきました。ここは住宅地になるそうで、その前に発掘調査がなされていました。現場で作業されているみなさんご苦労様でした。