取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「」で検索した結果,2772件の記事が見つかりました。

木山神社 奥宮(真庭市)

2021-6-15kiyama3.jpg

 里宮から、木山寺の参拝道の標識に従って車を走らせること約7分、真言宗別格本山木山寺のすぐ横に、木山神社の奥宮があります。昭和37年に今の木山神社の場所へ遷宮(神様のお引越し)するまでは、この奥宮が木山神社でしが、元々、木山神社と木山寺は一体の神仏習合の「木山宮」でした。
 古くは「木山牛頭天王」とも言われ、室町期には赤松義則・尼子晴久・宇喜多秀家・森忠政からも信仰を受け、寄進もされた記録が残っています。
 建物は天正八年(1580年)に建てられたもので、岡山県の重要文化財にも指定されています。また、奥宮境内地内の随身門は真庭市の重要文化財、随身門のなかに安置してある門客人神像も岡山県の重要文化財に指定されています。奥宮には今も木山寺と同じく、牛頭天王が祀られています。
 奥宮の本殿は天正5年の大火の後天正8年(1580)に再建されたものであり、また奥宮随神門の随神像は室町時代の應永3年(1396)の作で天正5年の大火の際にも焼失することなく現存している。(文:木山神社HPより抜粋)(2021年6月15日撮影)

木山神社 奥宮(真庭市)の続きを読む

昭和初期の神傳流の記録写真と背景

1128-780yoshio11.jpg

約100年前の古き良き時代(大正元年~昭和9年頃)の神傳流の記録写真
 田中義男さんの遺品の中にあった、昭和の初期から10年間ほどの神傳流の記録写真がありましたので一部をご紹介してみます。(神傳流とは、日本泳法の一流派。加藤清正の臣、貴田孫兵衛統治を流祖とし、伊予国(愛媛県)大洲藩士加藤主馬光尚に伝えられ、美作国(岡山県)津山藩士植原六郎左衛門正方が広めた。あおり足を基本とし、真・行・草の三体の泳法があり、遠泳に適する。皇朝神征水軍練法ともいう。)コトバンクによる。
 田中義男さんは子供のころから熱心に神傳流を続けていて指導者の資格も取得し、大学が休みになると帰ってきては子ども達を指導をされていました。
 アルバムを拝見しながら背景に写っている風景からして、茅町や安岡町あたりでしょうか?いずれにしても昭和初期はこんな風景だったのだと。

昭和初期の神傳流の記録写真と背景の続きを読む

手軽に作る「ちまき」

5-20chimaki4.jpg

2021年5月20日、金尾利恵子さん宅にて柏餅を作り食してまいりました。
 この頃は、あまり柏葉を見かけることが少なくなってしまい、代わりに笹の葉を使用してみました。
現代はいつでもスーパーなどで見かけますが、昔は田植えが終わったころに田上がりの行事として作って家族みんなで食べていたものです。金尾さんのご厚意で久し振りに作ったら、子どものころ出来上がりを、まだかまだかと心待ちにしていたことを思い出しました。

手軽に作る「ちまき」の続きを読む

曹洞宗 巨龍山 定光寺(高梁市)

teikouji_hondou.jpg

 僧都が大同2年(807)深山幽谷の地で仏典の研究に適し、医術のための薬草・薬石が近くにあるため、ここに桓武天皇からいただいた「法皇山萬年堂」を名乗り、法相宗のお寺として創建されました。翌大同3年(808)には弘法大師が僧都を訪ねてこの地を訪れています。嘉吉年間曹洞宗に改宗され現在の37世までつづいていて、平成31年(2019)の「晋山結制」の儀式の際「玄賓僧都没後1200年法要」も同時に挙行されています。

曹洞宗 巨龍山 定光寺(高梁市)の続きを読む

【津山人】大空を飛んだ田中次郎(海軍中佐)

takao_jirou.jpg

 田中次郎 明治39年10月23日東京芝区生れ、昭和60年8月1日没(左の写真は兄田中孝夫と)
 大正2年(次郎が8歳の時)父田中治平が亡くなり、2年後家族は津山に帰って来た。
津山中学校4年終了後、父治平の跡を継ぎ江田島にある海軍兵学校に入り大正15年卒業、海軍航空隊に入り、父と同様に中佐となりましたが、外地で終戦になり2年後に帰還。(奥さんと子供三人は、戦争中は加茂町に疎開していた)その後、奥さんの実家の逗子に移った。


 息子さんの石城さんの著書の中に、ご両親と自分との関りなどで興味のあるところがありましたのでお送りします。
 次郎氏は「男は負け戦のことなぞ、他人に語るものではない。」という態度の方でした。例えば、奥様が夫の自殺を心配された時に「そんなことするものか、我々が日本を再興するのだ。」と。また、娘さんの千里さんには「収容所に居る時、米軍を通して天皇陛下より、負けたからと自殺しないように、必ず日本に帰ってくるようにとのお言葉があった。と父から聞いている。」
 また、本当は飛行機を製作することの方に夢があった息子の石城さんが、防衛大を止めて三菱重工業に就職するつもりでいた時「飛行機に乗れない奴が飛行機など造れるわけがない。」と次郎に言われ、それなら飛行機に乗ろうじゃないかとなって今の道に進むようになったとのこと。
 寡黙な人が本当に言うべき時に言う言葉は万金の重みがある。これが、大正、昭和の親父の姿だったと、懐かしく思いました。
 私のように百姓生れの女性には、もののふ、軍人には縁がなく育ってきましたが、いざというときに、自分の思いでなくて大義のために行動する男の心情のようなものに久しぶりに触れたように思いました。
 結局、田中次郎家では、海軍軍人になるため兵学校に入学した次郎氏が、その当時の日本の戦況の状況で一番必要な飛行機の操縦士となり、その息子も戦後の日本空軍に入り次郎氏の後を継ぎました。また、石城さんの姉千里さんは、内田耕太郎氏(防衛大学校卒・海上自衛隊幹部)と結婚、治平の敬愛する上官東郷元帥ゆかりの海上自衛隊舞鶴地方総監を歴任。治平と同じ海軍の道を全うされたと聞いています。(原田兼子さん談)

【津山人】大空を飛んだ田中次郎(海軍中佐)の続きを読む

ザランタンあば村で自然を楽しむ

aba-2021-8-5-7.jpg

 「ザランタンあば村」のある阿波は、氷ノ山後山那岐山国定公園にもなっています。
 阿波森林公園内に、2021年7月にグランドオープンしたバンガロー5室とテントサイト10室を有するグランピング施設(テントの設営・撤収が不要で、食事の準備などの手間がかからないことから、近年注目を集めているアウトドアのサービス。)です。オープンしてから初めて伺いましたが、家族やお友達と自然を楽しむにはもってこいの所だと感じました。夕食はオリジナルバーベキュー、朝食は地域でとれたお米や野菜を使った和朝食と、こだわりの食事が出来るそうです。この日はお孫さんと参加していたご婦人がニジマスの塩焼きをされていました。(2021年8月1日・5日撮影)

ザランタンあば村で自然を楽しむの続きを読む

福田山 善福寺(真庭市)

2021-6-20zenpukuji2.jpg

 当山は、現在の福田の地に仙厳上人という僧が庵を結び、時の領主から寺領の寄進を受けたことに始まります。「(福田村の地名の起源)と伝えられていますが、年代は不明です。」ただし、元禄2年(1689)の記録では、すでに日名村の現在地にあることが書かれているので、開山はかなり古いものと思われます。
 本尊十一面観世音菩薩は、平家物語藤戸合戦の中にみえる佐々木盛綱の守護仏で、観音の霊験によって勝利をえた盛綱が、備前国児島に藤戸寺を建てて、この観音を祀ったといわれています。しかし、江戸時代の初めになり、領主池田候の廃仏に遭い、快仟法印は法難を避け、本尊を奉じて、この寺に入ったと伝えられています。
 なお、人々から子授け安産、ぽっくり観音として古くから信仰されており、また、母乳の出を願う女性、元気で長生きしぽっくりあの世に逝きたいお年寄りが、遠くからも参詣して来られます。(文:『高野山真言宗 美作霊場めぐり』より)(写真:2021年6月19日撮影)

福田山 善福寺(真庭市)の続きを読む

醫王山 感神院(真庭市)

odaishisama2.jpg

 感神院は木山寺の塔頭につき、縁起は木山寺と同様です。
感神院(木山寺大師堂)は享保2年(1717)に建立され、昭和30年までは木山寺本堂として使用されていました。本尊・弘法大師尊像は、日輪大師と称され、数珠の代わりに塔を持たれ、蓮台に座し、光背は光明真言の日輪になっています。また、お龕(ずし)には高野四社明神が画かれています。
 福引会陽:会陽は2月の第3日曜日に厳修され陰陽2本の御宝木(ごしんぎ)が福引で授与され、また参加者全員に御福銭が授与されます。その他、境内では柴燈大護摩供が厳修され、無病息災の火渡り、古いお札等のお焚き上げが行われます。(文:『高野山真言宗 美作霊場めぐり』より抜粋)

醫王山 感神院(真庭市)の続きを読む

2021梅雨の醍醐桜

2021-6-15daigozakura15.jpg

 この桜は、ヒガンザクラの一種「アズマヒガン」で、推定樹齢は1000年。根元の周囲9.2㍍、枝の広がりが四方に10㍍伸び、高さは18㍍ある。
「醍醐桜」の名前の由来は、鎌倉末期の元弘の乱により後醍醐天皇が、隠岐に流される途中ここに立ち寄り、美しさを賞せられたとの言い伝えによる。
規模・樹齢ともに県下一であり、昭和47年12月9日、岡山県の天然記念物に指定されている。真庭市

2021梅雨の醍醐桜の続きを読む